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「睡-NEBURI-」

出会いは三歳の夏だった。
僕は祖父と手をつなぎ、夜の湖畔に立っていた。
やわらかな闇の中を風が渡り、湖面が揺れた。
ドンという音がして、夜空に大きな花火が上がった。
群青の夜空がわれた。
睡る富士。
僕の胸に富士山が住み着いたのは このときだった。
(文:薫くみこ<児童文学作家>)


私は風景写真家の祖父と観光写真家の父のもとで育った。
祖父が第一線で活躍していた当時(1894年頃)、日本ではまだ写真技師は少なく、日本各地からの嘱託を受け、彼は風光明媚な景色の撮影に夢中になった。 晩年、彼は「箱根」という富士山のふもと、日本きっての観光地へと移住した。
そこで、私の父は観光写真家として、多くの旅行者を撮影し続けた。
私は幼い頃から家業を手伝い、祖父の富士山の撮影に同行したこともあった。

私は必然的に写真の道へと進むこととなったが、狭い日本だけではなく、世界中を見たかった。ヒマラヤ・アイランドピークへ遠征し、偉大な山々や景色に出会った。ヨセミテ国立公園へも足繁く通い撮影に夢中になった時期もあった。
私は写真家として独立し、東京での広告写真も手掛けるようになっていた。

しかし、私は故郷である「箱根」という土地への愛着を失ったことは一度もない。
私は忙しい日々の傍らで、私をずっと見守ってくれていた富士山の撮影を始めた。40歳のときである。手に入れたばかりの8×10を使い、じっくりとゆっくりと時間をかけて富士と対峙する。夜中に起きだし、真っ暗な闇の中でカメラを構える。じっと空を見つめていると、富士のシルエットが浮かび上がってくる。私達は、世の中がしんと寝静まっているあいだ、ふたりだけで会話する。 やがて朝が訪れ、山頂が輝きはじめる。美しい姿を現すまで、私はじっと待ち続ける。

私は自分を育んでくれた土地と、私の祖父と両親に何かを残したかった。 私は自宅を改造し「箱根写真美術館」という小さな城を建てた。 ここでは私の作品や祖父の作品、代々使用した機材などの展示のほか、国内外の新進作家に作品発表の場として提供している。
私はいずれ、存在しなくなる。だが、写真は残り、後世には新しい才能がどんどん生まれてくる。この美術館を介在として、新しい才能や縁、作品が生まれ、芸術家同士の交流の場となることを強く望んでいる。

私は芸術作品には言の葉が宿り、世界各国の人々に伝えることができると信じている。 私が撮るものは、単なる山ではない。 この大きく堂々と聳える山の潔さ、私に見せてくれる様々な表情、自然の恩恵、時間の流れ、 そして、何よりも、ただひたすらに美しい姿。

私の生きる証である。

写真家 遠藤桂(1958-)