アイランドピーク登頂記 遠藤 桂氏は登山を愛し、1980年に冬期ヒマラヤ解禁と同時にアイランドピークに遠征、登頂を果たしている。 この物語は、若き日の遠藤 桂が経験したノンフィクション・ストーリ−である。 |
プロローグ 夏。水道橋の西遊旅行で、初めて沢上登さんとお会いしました。何となく大らかな感じのする第一印象。 谷川や穂高ですれ違うクライマーとは受ける印象が違う。ビスタリ、ビスタリ、何処からか聞こえてきそうな対応である。 冬期エベレスト解禁に伴い、初登頂という小さな夢をみながらの登山計画。そもそも話の始まりは、エベレスト8848メートルを見たい、世界で一番高いところを肌で感じたいという願望からである。 中学の図書室にあった世界の山を閲覧した。14座ある8000メートル峰の最高峰、ヒラリー公とテンジンが初登頂。 蒼い空に逆三角形、頂上からは雪煙が流れ、アイスホールには強い影が伸びている。誰もが一度は目にしたことのある写真である。その写真が、どうしても忘れられずにいた。青春時代の追憶、憧れ。純粋に山に憧れていた。 1972年、12月31日:11時30分 箱根町宮城野橋 「寒いな、寒いな、哲生遅いな」 こんな会話をしながら、中学3年生の少年が毎日学校から見ていた明星ヶ岳の冬期登山を初めて30年目、少し昔が懐かしくなる年齢になりました。 2003年、エヴェレスト登頂50周年。なんとなく冒険の旅が懐かしく思えてきました。 これから私の青春時代の少し長いお話にお付き合いください。 出発 1979年12月19日、短大の友人、上田氏と高校時代の友人、都築氏、そしてパートナーの村石。私達は4人で、笹塚のとある飲み屋で小さな壮行会を開いていた。上田は高知出身で石鎚山がとても好きな奴で、在学時代何回も誘われました。高知に遊びに行く事が一度も出来ずに、学生生活を終えてしまったことになんとなく後悔していました。上田は酒を飲みません。高知と聞くとどうしても飲ん兵衛な気がしてなりません。しかし上田とは大学時代も飲んだ記憶が無いのです。友人のはっしんや利根とはよく飲んだ気がします。はっしんは、日大芸術学部剣道部の主将をしていたので、南長崎や江古田で武道談義に花を咲かせたものです。 初めての海外遠征、飛行機には一度だけ、羽田から小松までスカイメイトで短大時代の友人、川本と金沢へ撮影へ出掛けた記憶があります。 |
成田の寿司岩 はじめての国際空港。 それも開港2年目の新成田空港。 学生時代、三里塚の闘争の写真を見ながら、 夜な夜な写真談義に夢中になったこ とも、今は昔のことのようです。 若い頃は、生きるための問題意識を持つことや、 生きるか死ぬかの報道写真家に 憧れていました。 しかし、立場が変われば、成田空港を使用して、 はじめての海外遠征に心を躍ら せ、全てが新しいことばかり。 海外遠征など、 夢物語だと思っていたことが、少 しずつ、 確かに実感してゆく充実感に喜んでいる自分がいます。 円をUSドルに換金。カトマンズでルピーに換金する。 全て、沢上さんに教わっ たとおり。 周りを見回すと、ザックをかついでいるのは私達だけ、 ほかの人達 は、小奇麗で優雅な感じが漂っています。 「日本を発つ最後、寿司でも食べるか。」 「もう2度と日本に帰れないかもしれないしな。」 「俺、寿司なんて食べたことないぜ。」 「高いかもしれないな。」 「ビールで乾杯でもするか。」 「あった、あった、ここでいいか。」 『寿司岩』 寿司屋の暖簾をくぐり、威勢のいい掛け声。 「っらっしゃい。」 寿司の味などわからないまま、 若い三人は、 早くも経済崩壊の道へと足を踏み入れたのです。 当時、「あがり」と「のぼり」の区別がつかず、 お茶を頼みたくてもまず、他のお客 さんが頼むのを待っていたのを、 懐かしく思えてきました。 今でも、出国の前、 時間があればお邪魔して、昔を懐かしく思い出していま す。 昔からの店が今でも在ることは、とても喜ばしいことです。 (場所は移動したよ うですが) これからも頑張って、 成田の思い出作りに一役買っていただけます ようお願いしたいと思います。 |
「アイランドピーク登山隊」記録ノート |
はじめての出国 さあ、いよいよ、出国手続きです。 機内持込みのチェックを受けている時からドキドキしています。 とにかく初めてななことの連続です。登山家というのは金物と称していろいろな道具を持参します。ハーケンやカラビナ、五徳、コッヘル、生活道具を一式、持ち歩いています。山の中で一ヶ月近く生活をするのですから、仕方ないことです。 極力注意を払い、カメラ関係のチェックも難なく通りました。遠征に詳しい方の助言で、電算機を沢山持っていくと、後々役に立つことを聞いていましたので、20個ほど買い込んでゆきました。これが空港の人には怪しく見えたのでしょうが、「先発隊への届け物なんだ」と何とかごまかしました。今でこそ、トレッキングで海外に出掛ける人が増えましたが、1979年当時は、ほとんど目にすることがなく、空港の人達も何故かやさしく対応してくれました。 搭乗券を見て、「カトマンズですか。もしかしてヒマラヤですか」 「そうです」 「気をつけてください」 20歳そこそこの若者が、対等に話し掛けられること自体、はじめての体験です。 急に、大人の仲間入りをしたようです。 友人との最後の別れです。 ガラス越しに手を振る仲間に見送られながら、エスカレーターで階下に降りていきます。 自動ドアの中に入ると重々しい空気が漂い、なんとなく悪いことをしてないか、気になります。パスポートコントロール、イミュグレーションです。 出入国カードに間違いがないか心配です。今はこの出入国カードも必要ありません。長い列の最後尾に並びます。30分近く経ち、自分の番です。係官は、一言も言葉をしゃべりません。それが、なかなか緊張感をあおります。思っていた程難しいことはなく通過して、はじめて日本を出国、もう再び日本の地を踏めないような気がして少し寂しい気がします。ふと振り向くと2階のガラス越しに、別れたはずの友人の大きく手を振る姿を見付けました。何と心強く思えたことか、必ず戻ることを心に誓い、私もてを振り返し、別れを惜しみました。 |
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トランジット AI309便、GATE25、SMOKING SEAT 23E BOARDING PASSを持ちサテライトへ。 NON TAXで購入したグレンフィディック(グリーンの三角形のウイスキー)、ハンカチ、マルボロ1カートン、今ではこんな土産は買いませんが、なんせ、はじめての海外遠征。何も知らないのです。 山の先輩の話を聞いて、こんなものがいいんだろうと。 成田14時30分発、香港18時20分着。 ここ「トランジット」 19時30分香港発。ようは乗り継ぎ便のことです。 たしか機種はボーイング727だと思いました。 燃料の入れ替えやなんやらでと思っていたのですが、各駅停車の旅なのです。 私にすれば、ただで「香港の100万ドルの夜景」を楽しめるスペシャルな遠征です。 ドブのような匂いが立ちこめる空港でした。 確かに12月といえども、赤道に近付くと蒸し暑く、匂いも鼻に感じるようになります。 たった1時間10分。 乗り降りをひくと45分くらいですが、もう心は踊る踊る。 楽しくてウキウキ、ドキドキ何を見てもはじめての事だらけ、感受性とはまさに若さの特権です。 21時50分バンコク着。 はじめて降り立った外国です。 タイといえば、キックボクシング。ラダジャムナンかルンピニー。国民全てがキックボクサー。もし争いごとに巻き込まれたら、これはウキウキしていられない。奴らはハイキックに膝蹴りで責めてくるぞ。こちらは、やはりローキックに前蹴りで応戦、最後は目突き…、こんなことしか思い浮かびません。 なんともお気楽な入国です。 胸にはニュ−和同ツアーのバッチ、誰かが迎えに来ているはず。 大きいザックを両手に、空港のゲートを出ると…いました、「Mr.Sin Wong」。 異国で見る解禁シャツと怪しげな日本語、胡散臭くてしょうがありません。 が、頼れる人は彼ひとり。何とも情けない遠征初日です。 最初のホテル、RA-JAH HOTEL。 なんとなく隠微(淫靡??)なタイのホテル。紫を基調としてネオンが怪しさを誘います。 とにかく、くたくたでした。 倒れこむようにベットに身を投げ出し、そのまま意識不明に陥りました。 次に目を覚ました時には、窓の外が明らみはじめていました。 |
ネパール入国 12月21日(金)19:00 イミュグレーションで1時間ほど待たされて、いよいよカトマンズ。 カメラ、ムービーなどのチェックはザックにチョークのみ、ほんとに大丈夫かなと心配してしまう。 電気もついていない空港。天井が低く、後に訪れたマイアミビミニの空港に光の感じが似ていたような気がします。外の光が強く、人々はみなシルエットで、なかなか雰囲気がある。 そんな中にも優雅な人がいるもので、ダックスフンドを連れた御婦人が降りてきます。 沢上さんがいうには大使館の人だろうとのこと。やはり庶民の自分達とはだいぶ違うなあああ。 50$=515RS空港で交換。 $を持つのも初めて、そしてそれをネパール通貨(ルピー)へ交換。 お札の量が半端ではない。お金持ちになった気分。 沢上さんへ連れられて空港の外へ、いよいよ憧れのカトマンズ。 「ナマステ、ナマステ」「ナマステ」 「ナマステ、ナマステ」「ナマステ」 神々の国、ネパール。 中学校の図書室で読んだ挨拶。しかしイメージが少し違います。 なんとなく、のんびりと、時がゆっくり流れていくはずが、 大人は「車、車」子供は「マネーマネー」 空港の外で外国人を見ると、客引きの競争。 活気があるのか、商魂逞しいのか、怖さを感じてしまったのは私だけでしょうか。 コテージオーロラ。 今日の宿、旅籠、1泊50RS、高いのか安いのか、全然分かりません。 すべてが、はじめて。 トヨタ自動車の駐在員邸へ招待をうけた。 ビデオテープレコーダーがある。 当時、まだ珍しかった最新機械を羨ましく思ったのを覚えています。 今の一部の若者は節度なく、ブランドものやら色々自由に欲しいものを手に入れます。 当時の若者は節度があり、わきまえた生活をしていました。 日本人の控えめな美徳が懐かしく思えます。 洋画の中でよく見かける、ホームパーティーを初めて体験しました。 普段はトリスかホワイト。オールドはお金があるとき。 ジョニーウォーカーの赤ラベルは特別、黒なんぞが出てくるとお祝い。 テーブルの上には、オードブル(これがとてもうまい。)が何十品か。 ネパール初日、コテージオーロラに辿り着いたのは深夜11時を過ぎていました。 |
カトマンズ(タメール〜アッサンへ) 前編 | |
12月22日(土)10:00 沢上さんが迎えにくる。 やけに時間どうりにお迎えが来ました。 「ナマステ。」 「ナマステ。」 挨拶は「ナマステ。」 日本人同士でも「ナマステ。」 何となく馴染んでゆく感じが心地よく、「ナマステ。」 三人でSTS officeへ車で向かいます。 高度成長期の日本の生活を見慣れている日本人には考えられないほどのポンコツ車です。 床が抜けて路面が見えることなど良い方です。 ミラー、ウインカー、使えない。あげくの果てはハンドルが取れたり、それは楽しい経験です。 なぜかクラクションだけはけたたましくなることは忘れません。 今考えると、不思議でとても懐かしい車達でした。 |
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そんな車に乗りカトマンズの町中を走ると、そこはスピード感溢れる公道サーキット。 四方八方から自転車やらオートバイやら、我先に進み出てきます。 そんなに急いでも何にもすることがない様に見受けられますが、人にはいろいろな事情があるようです。 かと思うと牛の通り過ぎるのを延々と待つ、ヒンズー教徒ぶりをかいま見ることが出来ます。 此処でも、日本人にはない宗教観が存在しています。 旅立つ前の予備知識として『絶対に神の使いの牛には逆らわないこと』とありました。 |
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映画館の前には、すごい人だかり。 聞くとこによるとカトマンズでは今、とんでもない映画ブームなのだそうす。 どうも娯楽という行為が始まり出した時期なのでしょう。 日本でカラーテレビが普及しだして「力道山、木村組対シャープ兄弟」を皆で楽しんだあの時期です。 それともう一つ、建築途中の家がまことに多いこと。 いつ終わるでもなく、見るからに永遠に続く気がします。 |